『ダカーポ』 No.433 1999年11月17日号:日本テレビの杉本純子:
10月になってやっと遅い夏休みを取った。我が番組ではレポーター、スタッフともに年に1回、1週間の休みを交代で取る。今回、私は家族とともにパリ、ロンドンの旅行に出かけた。思えば私の初めてのヨーロッパは、ダイアナ死去による突然のパリ取材だった。あれから2年,秋のパリの街は相変わらず活気に満ち、世界各国からの観光客で溢れていた。
ダイアナが事故にあったアロマ橋下のトンネルは前方にエッフェル塔を見上げる観光地のまん中に位置する。事故直後はトンネルの入口にメッセージ付きの花束が敷き詰められていたが、今はその少し先にある金色のモニュメントがダイアナの象徴となっているようだった。そこに天国にいるダイアナに宛てたメッセージカードが張られ、少し枯れかけた花束が数束手向けられていた。日本人をはじめとする観光客が4、5人集まって記念撮影をしている。思ったよりも、静かだった。
私は旅の途中で立ち寄ったその場所で、当時を振り返りながら、ある人物を思い出していた。
ライオンという名の「巴里のアメリカ人」。彼は15年以上パリに住み、日本の マスメディアを相手に活躍するコーディネーターだ。2年前、私たちは彼と一緒にダイアナ死去の取材を行った。年齢は30代後半だろうか。短めの金髪で人懐っこい丸いフレームのメガネを掛けていた。アメリカ生まれで,少林寺拳法に興味を持ち、熊本で2年間修行を積んだ際に日本語をマスターした。その後中国に渡り、パリに住みつき、英語、日本語,中国語,フランス語の4ヶ国語を自在に操る。人生経験の全てを無駄にすることなく、今に生かしているような男だった。ライオンは日本語だけでなく、日本人的感覚も十分に身につけていた。どんなに忙しくても食事だけはゆっくりとろうとする点を除いては・・・・。
海外取材はすべてにおいて不便、不都合の連続である。土地カンのなければ、人脈もない。それに時差がある。例えば、パリは日本のマイナス7時間。午後2時の番組冒頭で生中継を入れるには、現地時間が午前7時。起床は4時半という日々が続いた。さらに伝送といって現地で撮影した映像を日本での編集に間に合うよう衛星回線と電話回線を使って送る作業がある。これは各局が同じ回線を利用するため事前に予約が必要だ。ロケが予定より長引き予約時間に遅れたら、日本のスタッフに迷惑がかかるだけでなく、莫大な延長料金も発生する。
最大の難関は、やはり言葉だ。言葉はレポーターという仕事の最大の武器である。インタビューは相手の言葉の中に疑問を抱いて、質問を重ねていくことで成立する。話そうとしない相手をインタビューに応じてもらえるよう説得するのもまた言葉の力である。その言葉が分からない、使えないのだから、こんなに辛いことはない。あのとき、パリでライオンに出会っていなかったらと思うと・・・。
こんなことがあった。
その日、私たちは事故現場に花を手向けにやってきていた人たちを取材していて、偶然一組のカップルにマイクを向けた。
「事故の日は僕たちの結婚記念日だったから、とても他人事だと思えなかった。それに友達が偶然に事故に遭遇したというし・・・・」
このインタビューの中で大事なことは、事故当日が2人の結婚記念日だったということではもちろんない。彼らの友達が事故に遭遇したということだ。私たちは色めき立った。何とかその友人を紹介してもらえないかと頼み込んだが、結局、彼らは口を濁してその場を立ち去ってしまった。
スクープの真の功労者
翌朝、私たちをホテルに迎えに来たライオンは、「今日、事故の目撃者に会えるかもしれない」とあっさりと言った。彼はカップルのさりげない会話の中から彼等の仕事先を聞き出し、前夜のロケ終了後に1人で彼らの勤めるレストランに出向き、さらなる交渉を続けていたのだった。
その目撃者は陽が沈んでから約束の場所に現れた。彼はアラブ系の男性で、現場近くのレストランに勤めている。仕事を終えて帰ろうとした時に、トンネル内での衝突音を聞き、現場に駆けつけたという。だが、取材を受けることを異常なほど拒んだ。日頃から人種差別を受けており、父親から自分たちが証言してもろくなことにはならないときつく口止めをされていたからだ。フランス語の話せない私たちには交渉の手だてが全くない。ライオンがどこまで粘ってくれるかが勝負だった。それがどんなに貴重な取材かが分かっているライオンは決して諦めず、時間をかけて彼の心を徐々に解きほぐし、ついに話す決心をさせた。
「僕は3人目に現場に駆けつけた。後部座席の女性はまだ意識があってウーンと唸っていたが、まさかダイアナだとは思わなかった。パパラッチらしき男性が彼女を助けようとすると、別のパパラッチが止めた。隣に乗っていた男性はすぐに死んでいるとわかった。ズボンが引き裂かれるようになっていてひどい状態だった・・・・」
それまで事故後に駆けつけた医師のインタビューは地元放送局から世界に配信されていたが、それより先に現場に駆けつけた目撃者の談話はこれが初めてだった。
もしもこれがライオンでなく、不慣れなコーディネーターだったらどうなっていたか。もしもカップルがインタビューの最後にぽつりともらした「友人が事故に遭遇した」という一言の重要性に気づかず通訳してくれていなかったら。おそらく善かれと思ってなのだろうが、相手の話をこちらが納得しやすいようにまとめて通訳する人は決して少なくない。
ライオンはこの点を実によく踏まえていた。さらに通訳が難しい複雑な内容は自らの判断で話を進め、行動した。おかげで私たちのパリ取材は順調に進んだ。彼ほど優秀なコーディネーターは私はかつてあったことがない。いや、とびきりのコーディネーターであるだけでなく、粘り強いネゴシエーターであり、そして素晴らしいジャーナリストだった。
今回の旅行の合間に、私はライオンに電話を入れてみた。
「もし、もしライオンです」
懐かしい声が聞こえてきた。フランスにいても、すぐに日本語で出るところが面白い。
「久しぶり、元気ですか?えっパリに来てるの?僕はいまケンゾーさんのオフィスにいるんです」
そういう彼に、私はどこのケンゾーさんかと尋ねた。すると、色の魔術師ことファッションデザイナーの高田賢三氏の撮影の仕事をコーディネートしているという。そのために多忙で2年ぶりの再会は叶わなかったが、私たち家族のためにお勧めのレストランを親切に教えてくれた。
日本に帰ってテレビをつけると60歳を区切りに現役を引退し、今回が最後のパリコレになった高田賢三氏が映っていた。そのニュース映像の裏側でも、パリの純日本風アメリカ人、ライオンがきっと大活躍していたに違いない。